ニセ本尊がニセである理由

ニセ本尊がニセである理由 ■御法主上人猊下の允可(いんか)なき故に

「曼荼羅(まんだら)書写の大権は唯授一人(ゆいじゅいちにん)金口(こんく)相承の法主(ほっす)に在(あ)り敢(あえ)て沙弥輩(しゅみのやから)の呶呶(どど)する事を許さんや」
(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』)
「曼荼羅書写本尊授与の事は宗門第一の尊厳の化儀なり」
(同上)

古来より日蓮正宗においては、御本尊の書写・授与の権能(けんのう)は、それが常住御本尊であれ御形木(おかたぎ)御本尊であれ、その根本は、唯授一人の血脈(けちみゃく)御相伝に基づく、御法主上人の専権であります。
それを創価学会などという在家団体が、「自分たちに信心の血脈があり、御本尊授与の資格がある」などと放言することは、日興上人以来の唯授一人の血脈相承(けちみゃくそうじょう)と相伝の仏法の正意の背(そむ)く大罪です。
また日寛上人は、日蓮正宗総本山大石寺の第二十六世御法主上人猊下であられます。創価学会は何かにつけて日寛上人を讃歎しますが、実際には学会とは何の関係もないお方です。創価学会の歴代でもなければ、また宗門を離脱した浄圓寺の歴代でもありません。
にもかかわらず、総本山御法主上人猊下の允可もなく、日蓮正宗とは何の関係もない新興宗教団体である創価学会が、勝手に日寛上人書写の御本尊を利用するのは、泥棒と同じであります。
また、日蓮正宗より擯籍(ひんせき)され、すでに僧籍のない成田宣道に、浄圓寺の重宝御本尊を持ち出し、学会に提供する資格なども、もちろんありません。これも泥棒です。

■開眼なき故に

「開眼供養せざれば家に主なきに盗人が入り、人の死するに其(そ)の身に鬼神入るが如し」
(『木絵二像開眼の事』御書638頁・学会版御書469頁)
「開眼と云うは、眼(まなこ)を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益(やく)も無く用(ゆう)も無し」
(第二十二世日俊上人『本門如来寿量品二十三座』/『歴全』3-3頁)
「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」
(第五十六世日応上人『弁惑観心抄』/研究教学書27-474頁)
「木絵の二像は本(も)と草木にて有り、然(しか)るを生身(しょうじん)の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至(ないし)日因に至る迄三十一代累も乱れず相伝是れなり」
(第三十一世日因上人)

学会製ニセ本尊には、もちろん、仏力も法力も備わりません。それどころか日蓮大聖人の御教示のとおり、開眼のないニセ本尊には悪鬼神が入り込み、それを持つ者、拝む者を一人残らず無間(むけん)地獄へと堕(お)とすのです。まさしく大謗法の根源であり、その恐ろしさをよくよく知らねばなりません。
創価学会は「開眼など必要ない」と言いますが、これは大聖人様、御歴代上人様の御教示を無視する大謗法の暴言に他なりません。
日蓮正宗の真正の御本尊は、常住御本尊であれ御形木(おかたぎ)御本尊であれ、すべて必ず、御法主上人猊下によって丑寅勤行の際に開眼供養がなされています。
今回、学会版ニセ本尊の元となった「浄圓寺所蔵の日寛上人書写の御本尊」も、一機一縁の御本尊として浄圓寺十六代住職・日證師に授与されるにあたり、日寛上人によって開眼供養されています。しかし、それはその一体の御本尊についての開眼であり、現代にいたって創価学会がその御本尊を改竄して複写し、大量に偽造した分については、開眼も何もないのです。
重ねて言います。
御法主上人の開眼のないニセ本尊には、仏力も法力も具(そな)わりません。凡夫学会員がいかに信力・行力を発動しようとも、それによって仏力・法力が顕(あらわ)れるなどということはありません。
第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「当(まさ)に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。若(も)し水なくんば則(すなわ)ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん。(中略)我等、法力により信力・行力を生ずと雖(いえど)も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず」
と、明確に御教示されています。
正しく開眼された御本尊は、日蓮大聖人の御当体として仏力・法力が具わっており、その御本尊に我々が信力・行力を発動することによって、四力(しりき=仏力・法力・信力・行力)が合(がっ)して即身成仏がかなうのです。しかし、仏力・法力のないニセ本尊では、いかに頑張ってもそれは不可能です。
それどころか、開眼供養のないニセ本尊には悪鬼・魔性が入り込んでいます。もしこんなものを拝めば、功徳どころか、堕地獄(だじごく)の大悪業(だいあくごう)を積むことになり、現罰(げんばち)は免れようがありません。

■日寛上人の御心を踏みにじるが故に

先述のとおり、学会がニセ本尊作成のために利用した日寛上人の御本尊は、浄圓寺十六代住職・日證師に授与された「一機一縁の御本尊」であり、真正の御本尊には「下野国小薬邑本如山浄圓寺 大行阿闍梨本證坊日證 授与之」という授与書きが入っています。
日寛上人は、あくまでも浄圓寺十六代住職・日證師への御化導(ごけどう)のために、一機一縁の御本尊を書写あそばされ、授与書きを認(したた)められ、日證師に授与されたのです。しかるに創価学会は、この日寛上人の御意志を踏みにじり、その一機一縁の授与書きを勝手に削除し、これを大量に複製して不特定多数の会員に配布しました。これが日寛上人への冒涜(ぼうとく)でなくて何でありましょうか。
また創価学会では、
「一機一縁の御本尊とは、大聖人の直筆の御本尊のうち、本門戒壇の大御本尊以外の御本尊のことをいう。御歴代の書写された御本尊は『分身散体(ふんじんさんたい)』『分身散影(ふんじんさんよう)』と呼んで、一機一縁の御本尊とは区別する」
などという意味不明な定義を勝手に作り上げ、学会製本尊がニセではないと主張し、学会員を欺(あざむ)いているようです。
しかし日蓮正宗においては、「一閻浮提総与」である本門戒壇の大御本尊以外の御本尊は、他の大聖人御直筆の御本尊も、御歴代上人が書写あそばされた御本尊も、その御形木(おかたぎ)も、すべて「一機一縁の御本尊」です。上記のような珍説は、学会が自分たちを正当化したいがために勝手なことを述べ立てているに過ぎません。
したがって、浄圓寺所蔵の日寛上人書写の御本尊は「一機一縁の御本尊」であり、学会の言い逃れは通用しません。学会製ニセ本尊は、どんなに姿・形が日寛上人の御本尊と似ていても、真正の御本尊ではあり得ず、日寛上人の御徳を汚(けが)し、上人を冒涜するものです。だから「ニセ本尊」なのです。
さらに前述のとおり、中央首題・梵(ぼん)字・四天王などの文字を、太くしたり伸ばしたりして、勝手に加筆しました。これは「変造本尊」に他なりません。
創価学会は昭和30年代のその昔、その興隆期において、御宗門より日寛上人の御本尊を御形木御本尊として下付されていました。だから今回のニセ本尊も、日寛上人の御本尊を利用することによって、同じように功徳があるように見せかけることができると考えているのでしょうか。
日蓮正宗の中興の祖であり、教学の大成者である日寛上人の御本尊であれば、信徒の尊崇の念も篤(あつ)く、その名声を悪用すれば会員の動揺も防げるし、身延日蓮宗等と同一視されることもないという、周到な計算があったことでしょう。実に小狡(ずる)い者たちであります。

以上、ごく簡略ではありますが、「学会製ニセ本尊のニセたる所以」と、その大罪・大謗法について記しました。
さらに重ねて言います。こんな「魔性の札」を持(たも)ち拝めば、堕地獄は疑いありません。「若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)破れて七分となる」は、厳然たる事実として、ニセ本尊を持つ者すべてに突きつけられるのです。これは脅しでも何でもなく、すでにその現証は枚挙にいとまがありません。
学会のウソに惑わされることなく、正直な眼(まなこ)で正邪の分別をつけ、早く信仰の寸心を改めてください。

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