日別アーカイブ: 2019年6月8日

わかりやすい創価学会の誤り・創価学会員の皆さんへ

『慧妙編集室 編』

二十五、戒壇の大御本尊を離れて功徳はない

学会員の皆さんは、かつて誰もが、「祈りとして叶(かな)わざることなしの大御本尊様」という言葉を口にしたことがあるのではないでしょうか。
この言葉は、二十六世日寛上人が、本門戒壇の大御本尊のことについて示された次の御文が元となっています。
「此の本尊の功徳、無量無辺(むりょうむへん)にして広大深遠(こうだいじんのん)の妙用有(みょうゆうあ)り。故(ゆえ)に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即(すなわ)ち祈りとして叶わざる無く、罪(つみ)として滅(めっ)せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕(あら)われざる無きなり。妙楽の所謂(いわゆる)『正境(しょうきょう)に縁(えん)すれば功徳猶(なお)多し』とは是(こ)れなり。是れ即ち蓮祖出世(しゅっせ)の本懐(ほんがい)、本門三大秘法の随一(ずいいち)、末法下種の正体、行人所修(ぎょうにんしょしゅ)の明鏡(みょうきょう)なり。」
すなわち、日寛上人は、”この大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、叶わない祈りはなく、生命に深くしみついた罪障(ざいしょう)を消し果てることができ、あらゆる幸せを招(まね)き寄せ、道理として必ず功徳の実証が現われる”と明示された上で、”この大御本尊こそが大聖人の出世の本懐であり、この仏法を信ずる人々の対境(たいきょう)である”と仰せられているのです。
戒壇の大御本尊は、”功徳聚”(くどくじゅ)といって、あらゆる功徳が聚(あつ)まっており、各家庭において御本尊を拝んで功徳があるというも、その源(みなもと)は全て、大御本尊にあるのです。したがって、戒壇の大御本尊を離れては、功徳があるはずがありません。
よく、「学会で信心していて、昔、功徳で救われた体験がある。だから、学会に恩がある」ということを言われる方がいますが、それは違います。創価学会に功徳があったのではなく、日蓮正宗から破門される以前の創価学会は、戒壇の大御本尊とつながっていたから、功徳をいただくことができたのです。
それを、「学会に恩がある」とか「センセーのおかげ」と会員に思い込ませたのは、じつは池田センセーの発案によるものでした。センセーいわく、
「私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ(中略)幸福境涯を確立することができるのです。」
(『前進』昭和四十二年二月号)
「私は、何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。・・・私は言ってあげて、罪業(ざいごう)を切ってあげているのだ。」(『前進』昭和四十一年一月号)
「皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ。」(『前進』昭和四十四年十月号)
これでは、”自分が、功徳を与え、罪業を切ってあげる仏だ” と言っているも同然です。実際には、我々に功徳を蒙(こうむ)らせ、罪障を消してくださるのは大御本尊に他なりません。
さらにセンセーは、真の功徳聚たる大御本尊のことを、
「本門戒壇・板本尊が何だ! 寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です!」
(平成五年九月七日・録音テープより)
などと、平気で大御本尊を愚弄(ぐろう)しました。恐ろしいことですね。
木の枝を折って根から切り離してしまえば必ず枯れてしまうように、もとより、完全に大御本尊から離れてしまった創価学会に、功徳などあるはずがありません。
今現在のあなたの生活を振り返ってみてください。体験はありますか? 周(まわ)りの学会員に不幸が連発していませんか? 「学会の座談会では、功徳の体験を聞かなくなった」という声もたくさん聞こえてきますよ。
本当に幸せになりたかったら、総本山の戒壇の大御本尊のもとに戻るしかありません。
学会員の皆さん、勇気を出して、お寺の門を叩いてみませんか。

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