日別アーカイブ: 2019年2月27日

(連載)創価学会 教学試験の 日蓮正宗批判を破す 第23回

(『慧妙』H30.12.1)

「御本尊に関する日顕宗の邪義」という批判

次に、『大白蓮華』「青年部教学試験2級」特集号(二〇一六年七月号)は「御本尊に関する日顕宗の邪義として、冒頭からトンチンカンな言いがかりを付けている。
いわく、<(宗門は)”法主にのみ御本尊に関する権能がある”などと述べているが、それは、「御本尊の『法水』は法主から来ている」という根拠なき妄想に基づいている>という。
御本尊の権能が御法主上人に在(ましま)すことは前回示した通りなので割愛するが、次の、「御本尊」の法水は法主から来ている」というのは、いったいどういう意味なのか? これこそまさに、”根拠なき妄想”の言いがかりである。
おそらく、御法主上人信伏随従しないと法水が通わない、ということを批判したいのだろう。
しかし、それは次の第六十六世日達上人の御指南からも明らかである。
すなわち、「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるか、ということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の血脈は流れないのであります。」(『大日蓮』昭和五十三年九月号)
よって、大聖人の仏法を正しく相伝された御方、つまり、時の御法主上人に信伏随従しなければ法水は流れ通わない。そして、その法水は本門戒壇の大御本尊から出てくるのである。
もし学会が、大聖人の仏法を正しく相伝しているというのなら、いつ、だれから、どのように相伝されたのか、明示すべきだが、できようはずがない。
ともあれ、日興上人以来、御当代日如上人に至るまで相承されている唯授一人の血脈こそ、戒壇の大御本尊と共に、日蓮正宗の根本命脈なのである。この根本の法体を深く信ずることにより、信心の血脈を受け継ぐことができるのである。これが日蓮正宗における正しい血脈観である。

「血脈」の本義も「開眼」の意義も否定

大御本尊を捨て「世界宗教」と誇る愚

つづいて、テキストでは<法水といっても、その継承を成立させるものは「信心」にほかならない><「広宣流布への信心」によって御本仏である大聖人から直接、法水を受けている>というが、時の御法主上人に背(そむ)き、末法の御本仏日蓮大聖人の出世の本懐たる、本門戒壇の大御本尊を捨て去って、どこに信心があるというのか。この理論がまかり通るのであれば、大聖人を信奉すると称する全ての教団に法水が流れることになるではないか。まさか創価学会は、日蓮宗にも顕正会にも法水が流れているというのではあるまい。
また、二十六世日寛上人は、「一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。
根源とは何ぞ、謂(い)わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄68頁)
と、広宣流布の根源は戒壇大御本尊であることを御教示されているが、すでに、学会では大御本尊を捨て去っているのだから、広宣流布への信心など微塵(みじん)もないことを知るべきである。
続いてテキストでは、<(宗門は)”学会が授与する御本尊は、法主の「開眼」がないから功徳がない”などと喧伝(けんでん)しているが、これも、全くの邪義>で<「開眼」のような特別な儀式が必要などとは、御書のどこにも書かれていない>として、開眼は必要ないという。
まずは、御書に開眼についての御教示があるので、それを示そう。
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(御書638頁)
「木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(御書1275頁)
「此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」(御書993頁)
これでも、御書に「開眼」がないと言い張るつもりか?
開眼のない学会の本尊はニセ本尊であり、それは人を不幸たらしめる魔札本尊なのである。
そのニセ本尊を「全世界の人々に知らしめ、信ぜしめ、授与していくこと」は大謗法の害毒を拡散させ、全世界の衆生を苦悩と混乱に陥(おとしい)れる堕獄の因となるだけである。
ニセ本尊頒布(はんぷ)が始まって四半世紀が経(た)つ。学会執行部も、会員がニセ本尊の害毒によって塗炭の苦しみにあえいでいることを、伝え聞いているはずだ。
一刻も早くニセ本尊頒布を停止し、正法に帰するべきである。
この段の締(し)めとして、宗門と決別後に創価学会は世界宗教として大きく飛翔した、などというが、大聖人は
「汝只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」(『聖愚問答抄』御書402頁)
と、いかに多くの人へ広まったとしても、その教えが正しい道理に基づいていなければ何にもならない、と断ぜられている。
ましてや、近年の学会はどんどん会員数が減少し、衰退し続けているではないか。虚(むな)しく哀れ、としか言いようがない。

連載 学会メディアを破す!

今年も池田不在の創立記念日

十一月十八日、今年も創価学会創立記念の祝典が、巣鴨の東京戸田記念講堂で開催された。
言うまでもないが、池田は案の定これを欠席し、代わりに「祝福」の和歌を贈ったという。
また、和歌の発表後は、息子博正により、池田のメッセージとして
「全て見守っていました。牧口先生も、戸田先生も、どれほど喜んでおられることか。みんな、ありがとう! わが全同志のますますの大福運と大勝利を祈って、3首の和歌を贈り、私からの感謝と祝福といたします」(『聖教新聞』十一月十九日付)
とのメッセージが読まれているが、会員が望んでいるのは息子による代読ではなく、大作自身が挨拶することである。そんなことも執行部はわかっていない(否、わかっていても、そうできない状況なのである)。
また、十七日の総県長会議にて、会長の原田は「誓願勤行会の意義」について、次のように指導している。

「勤行会の意義」と謳(うた)い選挙を語る原田

学会の要(かなめ)たる常住本尊の出処(でどころ)には沈黙

「広宣流布大誓堂に御安置されている『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の学会常住の御本尊は、戸田先生が学会前進の『金剛不壊の大車軸』として発願され、池田先生が『広宣流布の希望の道を無限に開かせたまえ』と祈り抜かれてきた御本尊です。
その強き祈りを根本に、池田先生は、世界広布への雄渾の指揮を執ってきてくださいました。」(『聖教新聞』十一月十八日付)
毎回のことだが、重要な事が抜け落ちている。
学会常住の本尊たる「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊はどなたが認(したた)められたのか。
戸田城聖氏なのか、はたまた池田なのか。
正解は日蓮正宗第六十四世日昇上人である。この事実は不変である。
戸田氏は、「学会においては、広宣流布大願の『曼荼羅』を、六十四世水谷日昇上人にお願い申しあげ、法主上人におかせられては、学会の決意を嘉(よみ)せられて、広宣流布大願の大御本尊のお下げわたしをいただいたのである」(戸田城聖全集三巻120頁)と指導しているが、現在、広宣流布大誓堂なる建物に安置されている本尊は、日昇上人による御書写(の本尊を模刻したもの)である。
また、「勤行会」と言いながら、大御本尊への御開扉を連想させる行事を行なっているなど、所詮、日蓮正宗の紛(まが)い物でしかない。
こうした偽(いつわ)りや紛い物ばかりの創価学会の信仰に、功徳などあるのだろうか。あるはずがない。
さらに、「勤行会の意義」と表題があるにも拘わらず、来年に控えた統一地方選挙・参議院選挙の啓蒙をするのは図々しい。
紙面の分量を確認すると、公明党と選挙啓蒙の量の方が多いが、この辺に、前の沖縄県知事選で大敗北したことの焦りが見えている、といえる。
それにしても、ここまで露骨に選挙活動をするのは、憲法で規定されている「政教一致」の原則を無視し、与党であることを良いことに好き勝手をしている、愚かな所業である。
創価学会員よ。選挙活動に功徳があるなどと、本当に信じているのか。また、姿を見せることなく、メッセージしか贈ってこない、幽霊のような池田を「永遠の師匠」と崇(あが)められるのか。
もう一度、初心に戻り、再考することをお勧(すす)めする。そして、一日も早く大御本尊の御前に詣でようではないか。

読者の おたより『新・人間革命にも注目の記述!

東京都 匿名希望さん

先般、十数年ぶりに創価学会員との対論を行なった。その面々がとても若く、何と平成生まれの青年部、すなわち生粋の邪教創価学会育ちということだ。
果たしてどのような疑難をふっかけてくるのやらと思っていたら、いきなり「戒壇の大御本尊に関する御書の文証はない」と言い出すのでちょっとビックリ。かつ、しまいには「『聖人難事』に書いてあるのは難を受けた年数だ」とまで言い切っていた。
他にも意味不明の珍論を述べていたがそれは放っておくとして、この「大御本尊」の件に関しては彼らの師匠池田大作御大が『新・人間革命』第一巻の中で「日蓮大聖人出生の本懐は大御本尊建立」とする一節があるのでぜひ紹介したい。
次に挙げるのは第一巻「旭日の章」の一節で、ご丁寧にも「語句の解説」まで付いているので併せて引用し紹介する。
「コロンブスが、イタリアのジェノバの出身とされるところから、イタリア系の市民によって、一九五七年の十月十二日に建てられたものであるという。コロンブスが、アメリカ大陸到達の端緒(たんしょ)となるバハマ諸島のワットリング島に上陸したのは、一四九二年の十月十二日のことであるから、その四百六十五周年に建造されたことになる。
『十月十二日といえば、大聖人の大御本尊の建立と同じ日だね・・・・・・』
つぶやくように伸一(※池田大作のこと)が言った。
その声には、深い感慨が込められていた。
もともとコロンブスの旅は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に、大陸の東の海上一、五〇〇マイルにある黄金の島『ジパング』として記された、日本をめざしての旅であった。日本を黄金の国として紹介したマルコ・ポーロが、アジアに滞在していた一二七九年(弘安二年)、日蓮大聖人は日本にあって、一閻浮提総与の大御本尊を御図顕されたのである。
実際の日本は、マルコ・ポーロが口述したような、黄金に輝く財宝の国ではなかった。しかし、大聖人の大御本尊の御図顕によって、全人類の幸福と平和を実現しゆく大仏法の黄金の光が、アジアの東のこの島から世界に向かって放たれたのである。(中略)
カナリア諸島を経由し、大西洋を突き進むこと七十一日、十月十二日に彼はワットリング島を見つけ、上陸した。大聖人の大御本尊の建立の二百十三年後の同じ日である。山本伸一は、そこに何か不思議な因縁を感じた。」
と、このように池田大作は「十月十二日は大聖人の大御本尊の建立の日」と解説し、さらに、これによって「全人類の幸福と平和」が実現できる、とまで綴(つづ)っている。
が、これだけでは詳細はわからない。
そこで次の一文。『新・人間革命』の「語句の解説」だ。
「一閻浮提総与の大御本尊 日蓮大聖人が、全人類を幸福にするために与えられた大御本尊のこと。弘安二年(一二七九年)十月十二日、農民信徒が権力者の迫害に耐え、信仰を貫いた『熱原の法難』を直接の機縁として顕された。大聖人は、大御本尊の建立こそ、御自身がこの世に出現した根本の目的であるとされている。」
すなわち、「大御本尊」について、「日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に、熱原法難を機縁として一切衆生のために大聖人御出現の根本の目的である一閻浮提総与の大御本尊を顕された」と明確に述べている。
ん!? この脈絡、これ(大御本尊否定の前)までの『聖人御難事』の解釈と同じ流れではないか。
大御本尊の意義付けも「大聖人御出現の目的」と、表現は違えど「大聖人出世の本懐」と同じ意味である。
そして「一閻浮提総与の大御本尊」も「戒壇の大御本尊」の御書に他ならない。
したがって、池田の文章を簡略に言い直せば、「日蓮大聖人は熱原法難を機縁に御自身の出世の本懐である戒壇の大御本尊を建立された」ということになる。
すなわち、池田大作は自らの畢生(ひっせい)の大著『新・人間革命』で堂々と「日蓮大聖人出世の本懐は大御本尊建立」と日蓮正宗の正義を宣揚していたのだ。
かの学会青年部は創価学会の教義は「破門以前・破門以後」で変化がある、などと宣(のたま)っていたが、この『新・人間革命』第一巻は一九九八年(平成10年)の刊行。つまり破門後の法門とやらになるから引用に問題はないはずだ。
創価学会員諸君、これはもしかしたら池田大作にとって、御宗門への最後の御奉公だったのかもしれないのだ。大いに誇りに思ってよろしい(笑)。
ちなみに池田大作はこの書の「はじめに」で次のように語っている。
「私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければわからない真実の学会の歴史がある(中略)私は、再び、自らペンを執ることを心に決めた。」
このように、池田大作はこの『新・人間革命』を自らの固い意思で書いた、と主張しているのだ。
それほどに大事な「日蓮大聖人の出世の本懐は大御本尊御建立」との文章を決して甘く見てはいけない。
もしかしたら、私が持っているのは一九九八年発行のいわゆる第一刷。その後に改訂が入っているのかもしれぬが、それは当方の知るところではない。『新・人間革命』に違いはないのだから。
冒頭の学会青年部のように大御本尊の意義がわからぬ輩(やから)はこの『新・人間革命』をしっかりと読み直し、それでもこの文に納得できぬものは、死の淵にあるのかもしれぬ池田大作に向かって「嘘ばかり書きやがって、いつになったら真実にたどり着けるのか!」と怒鳴りつけよ。面談も叶わぬことではあろうが。

※大聖人の出世の本懐への疑難については、暁鐘編集室より『日蓮大聖人出世の本懐』として教学的破折書が出ています。

http://emyo.jp/

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