日別アーカイブ: 2019年2月2日

2面 (連載)他門流からの疑難を破す 第9回

(『慧妙』H30.12.1)

戒壇の大御本尊の建立意義とその背景

今回は、邪宗徒が当宗を誹謗(ひぼう)する際の最大の標的としてくる本門戒壇の大御本尊について、建立意義とその背景について述べていく。
本門戒壇の大御本尊は、仏法の極理、一切衆生成仏の直道であり、大聖人究竟中の究竟なるがゆえに、門外漢の輩(やから)にはとうてい理解できえぬ法体たることは当然至極だが、大御本尊建立の経緯と意義を明確にして、正義を示しておきたい。
大聖人は、突如として本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのではなく、御本仏としての御化導の順序次第の上から、任運の仏意により本懐を成就されたのである。そして、本懐である大御本尊建立に至る要因には、外的と内的との両面が拝せられる。
まず、外的要因として、最も重要な大御本尊建立の契機となる熱原法難がある。
文永十一年(一二七四年)、佐渡流罪を赦免(しゃめん)された大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は甲斐・駿河・伊豆方面への折伏弘教を展開されており、特に幼少時代に修行した富士地方の蒲原四十九院・岩本実相寺を中心に、飛躍的に教線が伸びていた。
それにともない天台宗の古刹(こさつ)・滝泉寺の僧である下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅等が帰伏改宗した。
さらには日秀師等の教化により、熱原郷の農民たちから信頼されていた神四郎ら三兄弟が帰依するなど、その後も入信者は後を絶たなかった。
この状況に危機感をおぼえた滝泉寺の院主代・行智は、幕府の要人であった平左衛門尉を後ろ盾に、政所(まんどころ)の役人と結託して熱原の法華講衆を弾圧する機会を狙っていた。
そして弘安二年(一二七九年)九月二十一日、行智は、多くの法華講衆が下野房日秀師の田の稲刈りを手伝っていることを聞きつけ、武士たちを駆り集めて押しかけ、農民たちに手傷を負わせたのである。
神四郎以下二十名はその場で取り押さえられ、下方政所へ拘留された。
さらに行智は、神四郎の兄・弥藤次の名をもって、神四郎等を罪人に仕立てあげる卑劣な訴状を作り、鎌倉の問注所に告訴するとともに、農民たちをその日のうちに鎌倉へ押送(おうそう)したのである。
この事件の知らせを受けた日興上人は、すぐさま、その状況を身延の大聖人に報告された。
これを聞かれた大聖人は、熱原の信徒たちのことを深く思いやられ、さっそく『聖人御難事』を認(したた)めて門下一同の団結と奮起をうながされるとともに、『滝泉寺申状』を撰し、日興上人に清書させて問注所に提出するよう命じられた。
十月十五日、平左衛門尉は熱原の信徒に対し尋問を執り行なったが、事件の真相を問い糾すこともなく、「速やかに法華の題目を拾てて念仏を称えよ。さもなくば重罪に処す」と威嚇(いかく)した。
しかし、常に法華経への信仰を教えられていた神四郎たちは、少しもひるむことなく、ひたすら題目を唱え続けたのである。
この農民たちの唱題の声に激怒した平左衛門尉は、蟇目(ひきめ)の矢を射させて拷問を加えたが、しかし法華講衆の信念は微動だにすることなく、唱題の声はますます高くなるばかりで、これにより犯乱の極に達した平左衛門尉は、無惨にも、農民の中心者であった神四郎ら三人を斬首するという、非道な処置を下したのである。
残りの十七人の農民は放免されたが、この悪逆を行なった平左衛門父子は、これより十四年後、謀反(むほん)の罪により誅殺(ちゅうさつ)せられ、還著於本人(げんじゃくおほんにん)の法華経の現罰が下ったのである。
以上が熱原法難の概略である。
さて、この熱原の法難においては、一文不通で身分の低い百姓の信徒が、大難に屈することなく身命を捨てて正法を信じ貫くという、世の名僧や武家も及ばぬ信力行力の姿勢を示した。大聖人は、入信まもない熱原の農民たちの不自惜身命の信心を嘉(よみ)せられ、いよいよ下種仏法の究竟の法体を建立する大因縁の時の到来を感じられたのである。
弘安二年十月一日にお認めになられた『聖人御難事』には、
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。
余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(御書1396頁)と、今こそ出世の本懐を遂げるときであることを予証されている。
そして熱原法難の弾圧の吹き荒れるなか、弘安二年(一二七九年)十月十二日、本門戒壇の大御本尊を楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法師に彫刻を命ぜられたのである。
これは、すでに、『観心本尊抄』の
「今の自界反逆(ほんぎゃく)・西海侵逼(しんぴつ)の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661頁)との御文や、『法華取要抄』の
「是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(御書738頁)
との御文に教示されていた、三秘の法門が具足する一閻浮提第一の本尊であり、この本尊こそ、大聖人が末法衆生救済のために御図顕された、一代の施化の最高目的たる本門戒壇の大御本尊なのである。
釈尊の脱益仏法の域から出ず、いまだ仏像に執着する日蓮宗の者どもには、とうてい理解し難い本尊図顕の御化導の深義がそこにあるのだ。

戒壇大御本尊御図顕の契機は熱原法難

時を感じられ「余は二十七年なり」と

なお、先に引用した『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意について一言しておく。
この御文につき、古来、日蓮宗では「出世の本懐ではなく法難の年数を示している」などの誤読をしているが、正釈は「余は二十七年(にして出世の本懐を遂ぐる)なり」との意である。
一連の御文のなかの釈尊、天台、伝教の三国三師における四十余年、三十余年、二十余年の数字は、すべて出世の本懐までの年数を示しており、その文脈の流れから、大聖人においても、二十七年は出世の本懐までの年数を示す、と拝するのがごく自然な解釈である。
もし大聖人自身について出世の本懐を述べる意図がなかったならば、あえて三師の本懐までの年限も示す必要がないのである。つまり、「仏・天台・伝教の長年の大難申すばかりなし」とすればよいはずである。
また、大聖人が二十七年の年限を述べた箇処で「出世の本懐」との語句を省略されたのは、前文との関係より重複を避けて、語に格調と余韻を顕わすため隠文顕義の意から略されたからだ。
そうでなければ、前文の釈尊、天台、伝教の三師に関する「出世の本懐」の語がまったく不要で意味のないものとなる。
これらは日本語の常識であり、虚心坦懐に拝すれば誰にでも解ることだ。
ともかく、『聖人御難事』の御文や、熱原法難にみる一文不通の農民による死身弘法の信行という外面的な要因から、大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立された経緯は明らかである。

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あの頃、何が起きたのか -日蓮正宗を襲った学会の謀略と攻撃ー 連載弟9回

(『慧妙』H30.12.1)

大石寺にも「遺骨」訴訟を乱発

”遺族の心情”を盾に理不尽訴訟

前回、日蓮正宗末寺に対する遺骨管理をめぐる訴訟について述べたが、それらと同様に、遺族の心情・感情を”錦の御旗(みはた)”にした訴訟攻勢は、総本山大石寺にも向けられた。
その代表例は、かつて大石寺墓地内において墓地を造成した際、思い込みから県知事への墓地経営許可申請が行なわれず、その結果、許可を受けぬまま埋葬地として使用させてしまった区画があったことにつき、学会員が刑事告発や民事訴訟を起こした、いわゆる「大石寺墓地事件」と呼ばれるものと、合葬納骨を願い出た学会員から預かった遺骨を、同様の願い出のあった遺骨と合わせて大石寺境内地に埋骨したことにつき、その埋骨を”意志に反する不法投棄だ”として訴えてきた、いわゆる「大石寺合葬納骨事件」と呼ばれるものであろう。

司法が「実害なし」とした”申請漏れ”

それを「詐欺だ」と訴えた学会幹部ら

平成四年十二月十六日発行の『創価新報』に「違法な墓地造成が発覚大石寺」
「1350基、無許可の地域につくる」
との見出しが躍った。そこには、同年十二月三日、墓地利用者四人が、”大石寺の墓地造成は「墓地埋葬等に関する法律」(以下、「墓埋法」)に違反している”として、大石寺と、その代表役員の日顕上人を、静岡県警富士宮署に刑事告発したことが報じられていた。
総本山大石寺では、正本堂の建設に伴(ともな)い、それまでの墓地を移転する必要が生じ、昭和四十三年、五重塔東側の境内地に暮園を造成。その後、数次にわたって拡張を行なった。
その際、用地の一部に、墓地経営許可が未申請の土地も含まれてしまっていたのだが、すでに全てが申請済みであるとの思い込みから、未申請の土地も墓地として使用させてしまっていた。
それを知った学会員が、大石寺などを刑事告発した、というわけである。
さらに平成五年六月には、まずは三日に、女優の沢たまきら関東在住の学会員二十名(最終的には十七名)が、翌四日には、衆議院議員(当時)の近江巳記夫ら関西在住の学会員二十名(最終的には二十四名)が、大石寺に対し、”大石寺は、あたかも墓地経営許可を受けているかのように装って欺罔(ぎもう=いつわり、あざむくこと)するなどして誤信させ、墓地使用契約を結ばせた”などと、あたかも大石寺が詐欺(さぎ)行為を働いたかのごとく主張、それによって物質的・精神的な損害を受けたとして、それぞれ総額約一億円の損害賠償を求め、提訴に及んだのであった。
そして、このことは、『創価新報』(平成五年六月十五日号)が
「日顕(上人)よ一刻も早く責任とれ!」
「大石寺の違法墓地、東京・大阪で提訴」
「こんな詐欺行為断じて許せぬ!」
との大見出しを付けて報じるなど、創価学会によって、宗門攻撃のために徹底的に利用されたのである。
だが、そもそもが”申請洩れ”という単純ミスであり、かつ「墓埋法」の要件をきちんと満たしている墓地なのであるから、大石寺がなすべきことは、きちんとした手順を踏むことのみ。
学会員の刑事告発により許可申請洩れに気付いた大石寺はさっそく、静岡県知事に対し、当該墓地に対する許可を申請。平成七年十二月一日、および平成八年六月二十八日に、不起訴が決定したのである。
こうした情況を踏まえた大阪地裁は平成十年十月二十一日、
「(墓地使用契約締結に際し)被告が、墓地経営許可を受けていないことを認識しながら、右許可を受けているかのように装って原告らを欺罔した、と認めるに足りる証拠はなく、被告は墓地経営許可を受けていないことを認識せずに契約を締結した、と認めるのが相当」
「他の墓地区画と一体として整備されていて、墓地としての環境、管理状況において、他の墓地区画と何ら変わるところはなく、本件墓地区画について被告が墓地経営許可を受けていなかったからといって、原告らが本件墓地区画を墓地として使用する上で何らかの制限を受けたりしたことは一度もなかったということができ、原告らの権利ないし法的利益を侵害したとまではいうことはできない」として、近江らの請求を全て棄却。さらに、訴訟費用は近江ら原告が負担するよう命じ、大石寺全面勝訴の判決を言い渡した。
近江らは控訴したが、平成十二年七月二十八日、大阪高裁が控訴を棄却。近江らの上告も、平成十三年二月十三日に最高裁によって不受理とされ、近江らの敗訴が確定したのである。
また平成十二年三月十日には、東京地裁も沢らの訴えを棄却。最終的には、平成十三年十月十六日に最高裁が沢らの訴えを退けたことで、「大石寺墓地事件」は大石寺側完全勝利で幕となったのである。

正宗の化儀に則った合葬埋骨を問題視

”遺骨の不法投棄”と喧伝し訴訟に発展

さて昭和五十二年の初夏、大石寺の境内地(大納骨堂と、御歴代上人の位牌が収められた十二角堂との、ほぼ中間点)において、かねてより合葬納骨を願い出て大石寺に収められ、紙袋に纏(まと)められていた遺骨の埋骨が執(と)り行なわれた。
これには第六十六世日達上人が足を運ばれ、懇(ねんご)ろに読経・唱題された後、埋骨した場所には日達上人が丹精をこめられた杉の苗木五本を植えるよう指示をなされた。
こうして、合葬の願い出があった遺骨は、本門戒壇の大御本尊在(ましま)す総本山大石寺の土に還(かえ)っていったのである。
それから十七年が過ぎた平成六年六月__創価学会は突如、この出来事が”遺骨の不法投棄だ”と騒ぎ出し、大石寺誹謗(ひぼう)の大キャンペーンを張った。
「大石寺にまた新たな犯罪?」
「遺骨が不法投棄されていた!」
「大量の米袋が境内の空き地に」
とは、『創価新報』(平成六年六月一日号)の見出しである。
そもそも、最終的に遺骨を土に還すのは、日蓮正宗のみならず、大部分の仏教各宗派に共通する思想のはず。というのは、一般的な墓地のカロート(骨壺を収めるスペース)の大半は、その床の全部または一部分が「土間」になっていて、骨壺が収まりきらなくなった場合には、そのつど「土間」から遺骨を土に還せる構造になっているのだから。
しかし、そうした知識を持たぬ者、特に、創価学会によってしっかりと”宗門憎し”の感情を植え付けられてしまった者にとっては、”合葬骨が不法に土に埋められた”とする創価学会のキャンペーンは、より宗門への悪感情を高める方向に働いたろう。
しかも創価学会は、その前年、つまり、平成五年の夏から、
「あまりにひどい納骨実態 大石寺ほど腐敗した宗教はない」
「ゴミ捨て場同然の大納骨堂」
等と、『創価新報』(平成五年九月一日号)などを使って”大石寺の合葬骨の管理は杜撰(ずさん)極まりない”と散々吹聴(ふいちょう)してきていたから、”遺骨の不法投棄”報道についても、学会員がそれを丸々信じたとしても何ら不思議ではなかった、といえよう。
しかして、平成十二年三月九日、大石寺に合葬を願って遺骨を納めていた四人の学会員が、”昭和四十三年から五十二年頃にかけて、大石寺に合葬納骨を願い出て遺骨を預けたところ、預けた遺骨が他の遺骨と混和されて米袋に入れられ、土中に不法投棄された”などとして、埋骨された遺骨を大納骨堂内に収蔵することなどを求めて、静岡地裁に提訴したのである。
これに対し、静岡地裁は平成十四年三月二十七日、埋骨に至る経緯(けいい)には何ら問題はなく、埋骨そのものについても、「宗教的慣習または社会通念に照らして、不適切な方法であるなどと断ずることはできない」と判断して、四名の訴えを退けたのだが、これを不服とした学会員四名は東京高裁に控訴。
この控訴審において東京高裁は、埋骨に至る経緯については学会員の主張を退けたものの、大石寺が示した「埋骨は、故・日達上人の指示によるもので、日達上人御自ら、読経・唱題・回向をなされ、日蓮正宗の教義に則った形で他の合葬骨と合わせて埋骨したもの」という事実関係を認めず、学会員側が主張した乱暴かつ無造作な埋骨の情況と、他宗派の総本山や公営墓地における遺骨の合葬・合祀(ごうし)の形態とを対比して、大石寺の合葬納骨の在り方は、宗教的慣習ないし社会通念に照らして適切ではない、とする判断のもと、平成十五年四月八日、大石寺に対し、四名の学会員にそれぞれ五十万円ずつ支払うよう命ずる不当判決を下したのである。
この不当判決に対し、大石寺側は最高裁に上告したが、残念ながら裁判所の判断を覆すことはできず、同年十二月十九日、学会員への賠償を命じた東京高裁の不当判決が確定してしまったのである。
ともあれ、これら一連の墓地訴訟において、”言いがかり”ともいうべき訴訟を起こしたり、日達上人の御代における出来事を、日顕上人への攻撃材料に使うなど、これらが、まったく学会の怨念による宗門攻撃の一環であることは、誰の目にも明らかである。
また、「大石寺墓地事件」のように、常識的に考えれば訴えることすら憚(はばか)られる訴訟まで平気で起こすほどに、学会員は本部の洗脳によって、現実を見据える力も常識を弁える理性も奪われてしまったのである。
そんな学会員が起こした異常極まる事件は山ほどあるが、それについてはあらためて詳しく述べよう。

降魔の剣

▼本年も残り一ヶ月となった。本年を振り返ってみても、創価学会は衰退の一途を辿(たど)っている▼最大の原因は池田大作が頭破七分して長期不在となったことにある。二〇一〇年五月の本部幹部会を最後に姿を消してから、すでに八年半が経過した。もし勇退するならば、「本日をもって第一線から身を引くことにする」と宣言すべきであるが、突然消えた時点で、不測の事態が発生したことは明らかである。
八年半もリーダー不在、にも拘わらず「センセーはお元気で執筆活動にご多忙」などと見え透いた嘘(うそ)を貫き通しているのだから、組織の弱体化は当然の帰結である▼教義もコロコロ変遷し、根無し草のごとくであるから、会員の信も揺らいでいく。あげく、本門戒壇の大御本尊との訣別、創価学会仏の登場ともなってくると、邪宗からも突っ込まれるほどの体たらくだ。
根源から遠離(おんり)した三証不具の団体には衰退の道しかない▼邪義と成り果てた学会を信じ実践しても、当然、会員には功徳の現証が現われない。
冥罰(みょうばち)によって人生を蝕(むしば)んでいくだけであるから、高いモチべーションなど維持できようはずがない▼公明党も政権与党に長期間居座っているが、もはや自民党の補完勢力・金魚の糞(ふん)的存在に成り下がっている。
「自民に歯止めを」などと言いつつ、自民党に擦り寄って、次々にかつての主張とは逆の法案成立に貢献するのだから、身内の学会内部からも非難が出るのは当然だ▼
かくして、学会はあらゆる面で、その勢力が低下している。波田地某等、かつての邪義発案の中心者までが放逐(ほうちく)されたことから考えても、末期的病状だ。
しかし、私達は油断することなく、異流義教団・創価学会への折伏を継続していかねばならない。
近づく池田大作のエックスデーを見据えて。

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