日別アーカイブ: 2018年12月27日

(3)連載 創価学会 教学試験の日蓮正宗批判を破す 第15回

(『慧妙』H30.4.1)

「信心の血脈」に偏向した創価学会の誤り

(2)「神秘的な血脈の嘘」の破折を続けていく。
前回は、血脈にも「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」があることを述べ、学会の「唯授一人の血脈」への誹謗(ひぼう)を破した。
今回は学会の「信心の血脈」に偏向した主張を破していく。
本文を要約すると「大聖人御在世当時の仏教界は『血脈』の名のもとに、限られた人にのみ伝わる秘伝主義が横行していた。それに対し大聖人は、『生死一大事血脈抄』に『日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん』とあるように、成仏の血脈は特定の人にではなく万人に開かれるものである、と明確にされた。
大聖人の仏法で『血脈』とは『信心の血脈』のことで要は『信心』である。これに対し、信心、実践と関係なく、相承されれば仏である、とする日顕宗の特権的・神秘的な相承観は『信心の血脈』から外れた邪義である」という内容だ。
まず、特定の人に限られた「血脈」は、当時横行していたとはいえ大聖人の正意ではなく、「信心の血脈」こそが大聖人の正意である、などとする。しかしこれは学会の妄言であり、大聖人は法門の一切を日興上人ただ御一人秘して付嘱されている。
証文を一つ挙げれば『産湯承事』に「聖人言(のたま)はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人秘伝なり」(御書1710頁)とある。
この『産湯相承事』は日興上人が筆記されたものであり、当時、大聖人が御自身の出
生について日興上人へ秘伝されていたことがわかる。また「日蓮嫡々」とあることから御歴代上人への相承を前提としていたことが拝される。
次に、「成仏の血脈は特定の人にではなく万人に開かれるものである、と明確にされた」という主張だが、末法の一切衆生が大聖人の仏法で成仏するのは当たり前だ。
大聖人は一切衆生救済のために本門戒壇の大御本尊を顕(あら)わされたのだから。そのことと、血脈に「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」があることには、何の矛盾(むじゅん)もない。むしろ「唯授一人の血脈」を元として、一切衆生に「信心の血脈」が流れ通うのである。
しかして学会は、「唯授一人の血脈」を否定する目的で『生死一大事血脈抄』の御文を悪用する。だが、この邪義については、かつて日顕上人が完膚なきまでに破折されている。

相伝書にも明らかな「唯授一人の血脈」
『生死一大事血脈抄』を曲解する学会

「『生死一大事血脈抄』は、その題号からも解るとおり、生死のため、臨終正念のための教示がその主意をなすものであり、そこに広宣流布への意義も含ませられているのであります。故に、法華の血脈相承と言われるのも、妙法と地涌上行・日蓮に対する信心の血脈が注意をなしているのです。
全文を通じ、また、末文の『相構へて相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むる事なかれ』の文は、まさしく生死に関し、臨終の心得としての法華経・日蓮への信心の血脈であります。
そこにこの抄の血脈の主意があるのですが、これは血脈の全分ではないのです。
血脈の全分を言えば、『安国論』の附文に対する元意、『本尊抄』の下種本尊に関する法体と法門の血脈、『法華取要抄』に説かれる三大秘法に関する甚深の血脈等を含むのであり、言うまでもなく、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈がそれであります。『生死一大事血脈抄』の『血脈』は、このなかの信心の血脈を主意とする御書であり、彼等の引く諸文の意もその範囲に属するのであります。」(『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』93頁)
つまり、この『生死一大事血脈抄』は「唯授一人の血脈」を否定されるために顕されたのではなく、大御本尊を信じて信行邁進するところに信心の血脈が流れ通い成仏を開かれた御書なのだ。そして同抄の「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼扉此(じたひし)の心なく、水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書514頁)の御文は、大聖人(御入減後は、大聖人の仏法の一切を相伝されている御法主上人)に異体同心するところに生死一大事の血脈が流れることを御示しなのである。
学会首脳に騙(だま)されているくの学会員よ。次の日亭上人の御指南を拝して、正信に戻り、堕地獄の因を断つべきである。
「仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり。仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖人・開山日興上人巳来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も真善清浄の妙法蓮華経の色心の転換も只偏(ひとえ)に淳信篤行(じゅんしんとくぎょう)の要訣(ようけつ)にあり。若しこの要訣を遵奉(じゅんぽう)せずして、不善不浄の邪心迷信となりて仏意に違ふ時は、法水の通路徒らに壅塞(ようそく)せられて我等元の侭の粗(あら)凡夫の色心なれば、即身成仏の血脈を承(う)くべき資格減せり。」(『富要集』一巻176頁)

連載

他門流からの疑難を破す 第2回

仏滅讃文の主意と御本尊書写の深義①

『御伝土代』に噛みつく大埜氏の無慚

小欄連載のきっかけとなった、『法華講員VS日蓮宗住職<序章>』を読まれた方は御存知だろうが、大埜氏(日蓮宗・薬王寺住職)の邪義の一つに、『御伝土代』(四世日道上人著)の「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼茶羅なりと図し給ふ御本尊に背(そむ)く意は罪を無間に開く」との文と、本門戒壇の大御本尊に認(したた)められた仏滅讃文「二千二百二十余年」とが異なるので、日道上人は「唯授一人血脈相承の人であり、戒壇本尊を相承されていながら、別の曼茶羅への信仰を求めている」という主張がある。
この邪難は、何も目新しいものではない。以前から多数の謗法者によって主張されてきた内容で、すでに破折済みなのだが、それも知らず、今回の法論でも持ち出してこられたのであった。
簡略に破折の要点を述べれば、『御伝土代』の当分の表題に「一、脇士なき一体仏を崇(あが)めるは謗法の事」とあることからも、当文は、「仏滅後二千二百三十余年・・・」と示された正像未弘の曼茶羅御本尊に背いて、釈迦一体仏を崇めるならば無間地獄に堕ちる、との文章であること、したがって、仏滅讃文に「二十余年」と認められた御本尊を取らなくてはいけない、との意味は全くないのである。
大埜氏は、この破折に対し、文章を無視した同様の疑難を三つの文献から引いて主張した。しかし、どれもこれも反論になっておらず、また論点の拡大となるため、その疑難に対する破折は先延ばしとなっていた。
そこで小欄では、この疑難を取り上げ、破折を加えていくものである。

薬王寺のホームページには所蔵の仏像の数々が__その総数は12体!

”末法に初めて出現”が仏滅讃文の注意

御本尊書写は大御本尊の臨写ではない

その前に、はじめに二、三、述べておきたいことがある。
それはまず、大埜氏が住職を務める薬王寺では、呆気(あっけ)にとられるほどの本尊雑乱の有り様が見受けられる、という点である。そのような間違った本尊観を持つ者が、大聖人の正しい本尊観を論ずる、などということは、そもそも無理なのである。
「諸宗は本尊にまどえり」(御書554頁)
との御教誡を挙げるまでもないだろう。
次に、大聖人の御本尊に認められた仏滅讃文の主意は、最後の「大曼茶羅也」にある、という点である。
そもそも仏滅讃文とは、大聖人が末法万年救済のために図顕された正境が、仏滅後二千余年に未曽有の”大曼茶羅”であることを明示された文である。よって、仏滅讃文における仏滅後の年数の相違(二千二百二十余年か、三十余年かの相違)は讃文の主眼ではなく、また本宗の本尊義においても、その相違で一方の御本尊を取捨選択する、などという教義はないのである。
さらに、御本尊書写の権能を有する御法主上人以外の部外者が論ずる事は畏(おそ)れ多いことであるが、日興上人をはじめ御歴代上人の御本尊「書写」とは、ただ単に戒壇の大御本尊のお文字を書き写す(臨写する)ことでは、けっしてない。
本宗における御本尊の書写とは、血脈相伝を受けられた時の御法主上人が、大御本尊と一体不二の大聖人の御内証を拝して、御本尊を御認めになること、と拝するのである。
よって、御本尊の相貌に相違が拝されることに対し、矛盾(むじゅん)である、などと謗(そし)ることは見当違いの疑難にすぎない。
こうした、御本尊の仏滅讃文の主意や御本尊書写の深義を理解できていないからこそ、大埜氏は「上記の書(『本門心底抄』『日尊実録』『五人所破抄見聞』のこと。次回で取り上げる)にも、当然、御伝土代とも戒壇本尊とは無関係であると明確だと言っているのですよ」「三十余年と戒壇本尊の矛盾に関する関連書物です」と浅はかな発言を繰り返すのである。
本宗の教義信条から言えば、これら三つの文献に説示された御文は、どれも戒壇の大御本尊と「矛盾」することなど、何一つない。
大埜氏の主張は、仏滅讃文の年数にとらわれた、ただの言い掛かりに過ぎないのである。
次回は、その言い掛かりについて、具体的に反駁(はんばく)する。

連載

学会メディアを破す!

「創価学会仏」は「架空の仏」

去る三月十一日、創価学会においては「広宣流布記念の日」六十周年という節目の大会を行なった。
この大会は『聖教新聞』(三月十二日付)によると、日本と世界一五〇〇会場を中継で結び開催された、という。
この大会で登壇した会長の原田稔は、「三・一六」の説明をした後、「創価学会仏」について次のように述べた。
「『創価学会仏』の生命とは何か。それは、三代会長を貫(つらぬ)く、不惜身命の精神です。
『創価学会仏』の五体とは何か。それは師弟の血脈満身にたたえ広布拡大に邁進(まいしん)してゆく、私たち学会員一人一人です。」
これは、二年前の二〇十六年に降って涌いたように発表され物議を醸(かも)してきた「創価学会仏」について内容を補足するものである。
この原田の指導では、

「妙法蓮華経」こそ真の仏の生命の真髄(しんずい)

学会教学書も「種々の仏は架空の仏」と

創価学会仏の「生命」と「五体」について述べている。
まず、学会仏の「生命」とは「三代会長を貫く、不惜身命の精神」であるという。
だが、そもそも仏の生命とは、そんな狭義なものでない。
弟六十七世日顕上人は「南無妙法蓮華経の五字七字は仏の永遠の生命を示された法華経本門寿量品の真髄であり、そこにあらゆる衆生を導き救う『是好良薬』たる真実の教法の内容が存するのであります」(『大日蓮』669号58頁)と御指南されているが、妙法蓮華経こそが真の仏の生命の真髄である。
しかるに「三代会長を貫く、不惜身命の精神」が生命であるとは、なんと薄っぺらで人為的な仏なのだろう。そういえば学会の『教学入門』には、<さまざまな経典に阿弥陀仏などの種々の仏が説かれていますが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から比喩(ひゆ)的に示した架空の仏です>(当該書69頁)
と、種々の経典における仏は架空の仏としているが、未来の経典に載る(?)といわれる創価学会仏も、架空の仏ということか。それ故、創価学会仏の生命は狭義で薄っぺらでも構わないのである。
次に創価学会仏の「五体」についてであるが、どこの部位をさすか不明なので、おそらく、体全体と言いたいのだろう。
創価学会仏の体全体とは何なのか、それは「師弟の血脈満身にたたえ広布拡大に邁進してゆく、私たち学会員一人一人」であるという。
ここでいう「師弟」が誰をさすのか、明確には述べていないが、たぶん会長と会員をさすのだろう。要するに、単なる末法の凡夫と凡夫が、自分達の組織を拡大していくために狂奔(きょうほん)する、その集団をさして創価学会仏の「五体」としているのである。
これぞ、まさに謂己均仏(いこきんぶつ)の典型、迷える凡夫をもって直ちに仏とする増上慢に他ならない。
結局のところ、創価学会仏とは、学会首脳が勝手に造りだした架空の仏でしかない。
それゆえに、どんな狭義な教えであろうが、どんな体をしていようが関係ないのであろう。
このような邪義を真に受け、堕地獄の道連れとなる学会員を救っていかなければならない。

『http://emyo.jp/』

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