日別アーカイブ: 2017年7月3日

(2面)福本・小多仁の破折対談

(『慧妙』H29.2.16)

カルト創価を斬る

元公明党副幹事長・学生部東大総合委員長 福本潤一
元創価学会文化本部副書記長・元芸術部書記長 小多仁伯

[第65回]

福本氏と公明党、そして法華経研究会

創価公明党から”脱藩”した福本氏

小多仁 福本先生が、創価党と決別してから、すでに十年近くになります。
その際、「創価公明党から”脱藩”した」と表現されました。読者からの問い合わせもありましたので、この”脱藩”という意味を、改めて確認したいのですが。
福本 はい。
法華講員の信仰の世界では、この”脱藩”という表現は違和感があると思いますが、当時の私の心境を記者会見の席で率直に述べさせていただいたのです。
小多仁 この”脱藩”という意味を調べてみました。
検索によると、「脱藩は、江戸時代に武士が藩(国や領地など)を脱出して浪人になること」と説明され、勝手に脱藩した場合には、捉(とら)えられ死刑にされた例もあります。
幕末や明治維新の際には、このような脱藩志士達が立ち上がったことが、後に明治維新につながることになった、といわれています。
吉田松陰・高杉晋作・坂本竜馬などが”脱藩志士”として有名ですね。
福本 創価学会という巨大な組織を根本的に変革するのは、維新を成し遂げた志士たちのような、命がけの決意が必要と思ったのです。
さらに、坂本竜馬が勝海舟に協力して江戸幕府が政権を天皇に大政奉還したように、脱藩した福本潤一や創価に残った優秀な勝海舟的東大官僚とで、池田教に変質した創価藩を日蓮正宗に大政奉還すべきである、との意思表示でもありました。
その意味でも”脱藩”という言葉を使いました。
小多仁 その後の福本先生のご活躍は、素晴らしいものがあります。
当時の福本先生の並々ならぬ決意がよく理解できました。
あのころ、週刊誌に連続五回、登場されました。世間では、現職の国会議員がここまで勇気を持って告発したのかと、驚きと共に、エールを送っていました。
福本 私は”創価公明党と決別”するにあたり、相手が尋常ではない団体であることを知っていましたので、私に対する圧力や何をしでかすかわからないという恐怖を持ちながら、それなりの覚悟を固め、臨(のぞ)んだのです。
参議員会館七二七号室の福本事務所には、私に対する調査・脅(おど)しなど、それは凄いものがありました。当時の公明党秘書会長で、創価大OBのM君などは、私に”福本さん、殺しもあるからな”と言いました。
小多仁 国会の控室での発言として、許されざる暴言ですね。
福本 この脅しの直後の、長崎市長選挙において、現職市長の候補者が、街頭演説の途上で暴漢に拳銃で撃たれ暗殺される事件が起こりました。原爆反対運動に熱心な伊藤一長市長でした。
私は、無所属で立候補の準備をしていましたので、この長崎の殺人事件を教訓とし、防弾の体制をとりながら選挙戦に突入したのです。
小多仁 幕末や維新の志士と同様に、命懸けの選挙戦ですね。
福本先生が行動を起こすことで、困る人たちが出るということですね。
そして何より、”福本案件”が池田に知られることを恐れたのですね。
福本 後でわかったことですが、公明党の最高幹部が池田からたいへんに叱(しか)られたということです。

福本氏脱会の原因と創価公明党の対応

小多仁 そもそもの発端は、福本先生の政策秘書の高田(仮名)氏の死去にあたり、ご家族の希望により川崎市の日蓮正宗・持経寺で葬儀を行なう段取りとなったことからですね。日蓮正宗での葬儀を止められなかった福本先生に監督責任を問うた、信教の自由を侵(おか)す創価公明党の常識を逸脱(いつだつ)した対応からでしたね。
福本 公明党は、かねてより、創価学会、なかんずく池田の顔色に敏感でした。
公明党内では、高田秘書の葬儀案内すら配布禁止、という指令がありました。
信仰心ある遺族によって、公明秘書の葬式が日蓮正宗で行なわれるのを「世間に知られること」を恐れていました。
何よりも、日蓮正宗への対抗心が強く、秘書の高田さんのケースのように葬儀を日蓮正宗で執(と)り行なうというだけで、公明党執行部が動転してしまうほど、精神的に劣化していました。
小多仁 福本先生が”脱藩”を決意した二〇〇七年ころから、池田の健康状態に黄色信号がともり始め、それまで、どんな細かな事案でも報告させていた池田が、決裁を判断できない、まだら模様の状態になっていました。
公明党執行部が、”福本事案”を提出しても、こうしろ、ああしろという池田決裁が出てこないので、現場が混乱し、逆に、福本先生を走らせてしまったともいえます。
福本 そうなんですよ。特に、公明党執行部の対応が、不誠実でくるくる変わったり
明確さがありませんでした。
学会本部の秋谷会長に「病気のため、今回は福本氏の公認は見送ります」と冬柴幹事長が報告をしたところ、秋谷会長は、「病気の方は、福本から全快したと報告を受けている。こんなことをしていると福本は脱会するよ」と言ったそうです。
冬柴幹事長から再度呼ばれ、「君は病気は全快していたんだってね」と感慨深そうに言われました。
要するに、秘書の日蓮正宗での葬式が立候補取り消し理由だ、などとは言えないからです。
こうした悪しき体質は、創価の組織全体に蔓延(まんえん)しています。それは、長い池田独裁体制の弊害(へいがい)であり、池田側近たちも、自分では、何一つ決裁できないのですね。
小多仁 池田カリスマの終焉(しゅうえん)で、被害を受けている人たちが、一刻も早く、創価の呪縛(じゅばく)から解放されるといいですね。

東大法華経研究会員との縁を折伏に

小多仁 ところで、福本先生の「元東大学内委員長」について、少しお聞きしたいと思います。東京大学に入学されてからの活動のようなものをお話ししてください。
福本 東大の組織は、私が入信した昭和四十三年当時は、全学で三十人くらいの組織でした。
ちょうど東大紛争がスタートし、全国の大学・高校でもスチューデント・パワーが吹き荒れていました。
一年間、大学内では全学ストライキで授業がなく、代議員会や討論会や議論の毎日でした。その中で、駒場寮での福島源次郎氏を中心の折伏座談会を経(へ)て、十月十二日、大御本尊建立の日(正本堂着工大法要の日)に入信入会できました。
小多仁 東大法華経研究会のそもそもの発端は、渡部一郎氏や篠原、青木、森田康夫氏ら五人の東大生の会員に、戸田城聖氏が直接に指導する、エリート教育の場として創(つく)られたものでした。
これが後には、学生部誕生に結実していく端緒になったものです。池田を中心にした水滸会と東大生を中心とした東大法華経研究会が、戸田先生の将来に向けての構想にあった二大組織でしょう。具体的にその中で、総体革命への中枢にいた福本さんらの草創期の活動は、どんなものだったのでしょうか?
福本 東大法華経研究会は、総体革命の中枢として多くの人材を送り出してきました。当時の「総体革命=妙法の大地に展開する大文化運動」路線では、これに人生をかけた東大生を多く輩出し、登用されました。
私もその一人です。まず、下宿していた東大生も三十六人すべて駒場寮に入り、そこを拠点にして共同生活をし、二十畳の仏間も作りました。
新学同に送り出した津田忠昭議長や村井康一書記長らの後輩である、昭和四十三年組の三羽ガラスを中心に、人生をかけて広宣流布活動にまい進しました。
斉藤克司教学部長・福本参議院議員・宮田幸一創価大学教授の三名です。
本郷にも二階建て一軒家の拠点を作り、全国の成績優秀者には『受験戦線』という雑誌を送り、各方面や創価学園に行き、東大入学生創りのための必勝作戦もしました。また、新入生や友人に折伏を展開。昭和五十五年ごろには、当初三十名ほどの東大部員が、四百人越えの東大生組織になりました。
その頃の名簿を見ても、池田は東大生を登用というよりも、大いに利用してきたなと思います。
小多仁 多くの創価官僚的な人材がいますね。
福本 東大法華経研究会の発起人五人に加えて、福島源次郎や桐村泰次、原田稔(現会長)、後輩には、於保哲外、山口那津男(現公明党代表)、谷川佳樹、多くの創価大学の教授陣などなどです。
その他、医学部出身者や弁護士なども多く、また高級官僚など要職についている人間も存在しています。
小多仁 私が強調したいのは、四百人に及ぶ東大生の掌握されていたのが福本先生である、という事実です。「元東大学内委員長」という立場で、将来、学会員や創価官僚などが日蓮正宗に帰伏する際の潤滑油になっていく使命があると思うのです。
福本 そうなる日のため、ますますの精進をしていきます。と同時に、いくら東大という最高学府にいた人間でも、一番重要なことは一生成仏という観点です。
信仰の原点である、”無疑曰信(むぎわっしん)”すなわち、元品の無明を斬る”信”の利剣を磨かなくてはなりません。そのために、折伏を第一義として、創価を破折してまいりたいと思います。

http://emyo.jp/

Pocket